「学校」で「勉強のやり方」を教えないのはなぜだろう?

 

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  日本では、学校教育はかなり自由な選択肢と、平等に与えられた義務教育といった面で、優れていると思います。早い子供では幼稚園から学ぶ機会が設けられ、その後義務教育7年と、高校教育が3年、大学にいけばその後4年から8年以上もの勉強期間があります。7年から18年もの学ぶ機会が若いうちから設けられ、あらゆる人達に適応する学習レベルと学習ジャンル、価格帯も選択できるため、自分が望むスキルを学ぶ場所を、自由に選択できる時代でもあるのです。

 
  しかし、これだけ自由な選択肢があるのにもかかわらず、「なんとなくで進路を決めた」という人がいたり、「特にやりたいことがないから、いける学校に進学する」という人がいたりすることは、非常に勿体無いと感じます。
  さらには、学生を終えて社会人になってからもなお、やりたいことが見つからず、定年まで会社でなんとなく仕事をする人生を歩む人が多いところも問題だと思います。学生の頃はたくさんの選択肢があり、そこそこ勉強をしてきた人でさえも、やりたいことを見つけられず、さらには勉強をする習慣すら捨ててしまっています。
  やりたいことを見つけるには、日々の勉強や情報収集を積み重ねることが大切だと思いますが、社会に出てから勉強をする習慣がないのは問題点です。
 
  そこで今回は、勉強する環境はいくらでもあるのにもかかわらず、なぜやりたいことが見つからなかったり、学生を終えてから勉強をしなくなってしまうのかについて考えていきたいと思います。
 
 
 
 
 

■ やりたいことを見つける為には、勉強と情報収集が必要不可欠

 
 
 
  周囲の人や昔からの知り合いなどに質問してみると、「やりたいことが日常的にある」という人は少数派です。〜に旅行に行きたいとか、〜が食べたいという一時的な欲求ではなく、大袈裟に言えば自分の夢のようなやりたいことを持つこと自体、経験したことがないという人も多いようです。たった一度きりの人生ですから、何か自分のやりたいこと、夢中になれることを見つけて、取り組んでいきたいものですが、なぜやりたいことを持てなくなってしまうのか。
 
  私は、そもそもやりたいことを見つけるには、普段通りの生活をしていても難しいと思っています。いつもと変わらない日常の中では、新しい発見や学び、刺激があまりないので、やりたいことを探す選択肢が少なすぎると思うのです。これまで経験してきたことや、学んできた情報の中にやりたいことがないから、今やりたいことが見当たらないのですから。
 つまり、今はまだ知らない新しいところに、自分のやりたいことは隠れているはずなのです。
 
  だとしたら、日常的に勉強をして、情報収集をする習慣を身につけていれば、これからの人生の中で「やりたいことに関する情報」を手に入れることができ、人生に変化をもたらすことができるのではないでしょうか。今自分が持っている情報だけで、「やりたいことが無い」とか「人生かけて働く職場を決める」といった選択をしてしまうのは、あまりに無謀であり、もったいないことだと感じます。
  
  勉強といっても、机についてがちがちにやる勉強でなくていいと思います。雑誌を読んだり、好きな本を読んだり、ニュースを見るのだって立派な勉強であり、情報収集です。友人や同僚と話す中にも、勉強することや新しい情報もあるでしょう。
 必要なのは、日常的に何かを学ぼうという意思があるということ。何かを学ぶ時に、学ぼうという意思がなければ身につくものも身につきません。学校などで、ただぼんやり授業を聞いているだけの受け身体制なのか、必死で覚えようと授業を聞く能動体制なのかの違いと同じことですね。常に学ぶ意識があれば、日常の些細な会話や、ルーチンワークからでも学びが見つかりますから、まずは「何かを学ぼう、勉強しよう」と思うことからスタートです。
 
 
 
 
 
 

■ 学校では、勉強は教えてくれても、勉強のやり方は教えてくれない

 
 
 
  さて、勉強すること、情報収集をすることの意味を見てきたところで、なぜそういった「学ぼうとする意識が育たないのか」について考えてみます。
  学校では、何を学んだかが重要なのではなく、どうやって勉強するのかを学ぶことが重要なのです。つまり、長い時間をかけて勉強をするのは、勉強をしていく中で勉強の方法を学び出すためと言えます。
 
  しかし現在の学校教育はどうでしょうか。勉強はたくさんするのにもかかわらず、勉強のやり方を教えてくれる学校は少ないと思います。学校教育では、「学習指導要領」というものに基づいて教育計画がなされているのですが、その学習指導要領の中には科目別の指導要項は記載されていているのに、「勉強のやり方」を教える記載はありません。つまり、日本という国の教育方針の中に、「勉強のやり方を教えましょう」という考えが、そもそも無いということです。「勉強」は教えても、「勉強のやり方は教えるより、自分で見つけよう」というスタンスですね。
 
 例え話ですが、ある貧困でご飯もあまり食べていない人に「魚」を1匹プレゼントすることと、「魚の釣り方」を教えることとでは、どちらの方がその人のためになるでしょうか。魚1匹をプレゼントすると、そのときだけは喜ばれますが、その後はまたご飯が食べられない生活に戻ります。対して、魚の釣り方を教えた場合、いますぐに魚にはありつけなくても、今後一生をかけて魚を釣って食べることができます。
 
 この例は、「勉強」に置き換えることができますよね。学校で数学の問題の解き方を教えることは確かに重要ですが、「勉強のやり方」を教えていなければ、学校にいる間だけ数学の問題を解く人間が育ってしまいます。先生が教えてくれるから勉強しているだけ、という考え方が育ってしまうのですね。しかし、学校で「勉強のやり方」を教えていれば、今後一生をかけて自宅で勉強したり、個人的に興味があることを学んだりすることができるので、「やりたいこと」を見つける一助となります。もちろん、「勉強のやり方」を教える際には、「勉強をするとこんな良いことがある」とか「勉強はこんなに楽しい」といった、勉強をする利点や意味も教えることができると、より理想的です。
 
 
 
 
 

■ 終わりに

 
 
 
 勉強は人生一生をかけて続けていくものだと、私は考えています。勉強するのは学生まで、と考えてしまっていたとしたら、それは大きな間違いなので注意してください。むしろ、働き始めてからのほうが勉強するべきことは増えていきますし、家族を持ったり子供が生まれたりすると、さらに勉強することは増えていきます。人生のステップに応じて、必要なことを学ぶ姿勢がなければ、この情報化社会はなかなか生きにくいものです。
 
 勉強は、習慣化するとおもしろいもので、勉強をしていなかった頃よりもどんどん学ばなければならないことが増えていきます。勉強すればするほど、勉強するべきことが増える、というおもしろい循環に入っていきます。それは例えば、料理の勉強を始めると、食材について・調理法について・食べ物の旬な季節について・食材の栽培方法について・調理器具についてなど、一本の木から枝がはえていくように、増え続けていきます。もちろん、料理に限らず他の事も学ぶ人は、その木の数が増えていくので、勉強することだらけです。たった1度の人生では、学びたいことが学びきれないほどに、たくさんのことを勉強したいという欲求にかられます。
 
 だからこそ、人生のはやい段階で勉強する習慣を身に着けた方が、絶対に良いと思うのです。前述したように、学校教育の中で「勉強のやり方」を教えるシステムがあれば、必ず人生の早い段階で「勉強をする意味や利点」について真剣に考える時間が与えられることになります。その時学んだ「勉強のやり方」が必ずしもすべての人のためになるかはわかりませんが、一度考えて学ぶ機会があるだけでも、現在の大人よりも「勉強に対する考え方」がしっかり構築された大人になると、私は思います。
 
 ゆとり教育だなんだとよく言いますが、そもそもゆとり教育は「学習時間が少ない世代」のことを示す言葉です。その学習時間に比例して、「勉強のやり方」が上手な生徒が育つとも考えられますが、「学習時間」を気にする時点で少し捉え方が違うのではないかと思います。ゆとり教育が失敗したのは、減らした勉強時間分で何を学ばせるのかがしっかりしていなかったことだと考えています。せっかく時間を確保するところまで教育システムが変わったのだから、成績ばかりを気にするのではなく、「勉強のやり方」を教える時間に充ててほしかったと感じています。
 
 
 さて、今回はこの辺で終わりにしましょう。
 

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